外部記憶・外部知識の時代
先日、japan.internet.com で興味深い記事を読みました。「ITは人類を突然変異させている?」と題した記事は、ここ近年、急速にITとITツールに順応してきている人類は突然変異してきているのだ、という面白い例え話になっていました。
(記事の抜粋)
- 本来物をつかむための親指は、ケータイメールを打つために進化した。
- キーボードを打つことに今の子供は抵抗がない
- 長時間ディスプレイを見続けても、以前より疲れない
- 知識は頭に詰め込むものでなくなり、どこを探せば見つかるかを覚えるものとなった
- ズボンのポケットが(メール着信で)振動している気がする
確かに思い当たることが多々あります。中でも「知識は詰め込むものでなくなった」ことは、非常に興味深いと考えています。
はるか昔、受験勉強をしていた時(そんな次期が私にもあったのです)辞書は紙で、使い込むことがよいこととされていました。ところが、今は電子辞書1つで10冊以上の様々な辞書が内臓されていて探せばすぐに欲しい情報が手に入ります。ネットにも翻訳機能や辞書機能満載です。
電子辞書大好きで、歴史も大好きな知り合いがいまして、彼はかなり上手に頭の中の知識と電子辞書内の情報を駆使して歴史を語ります。彼を見ると、今の時代の知識のありかたは今までの紙ベースの頭に詰め込む知識の時代とは違うものと感じてしまいます。
既に知識は外部に保管し、どこにあるのか(検索技術によって)知っていればよい時代に突入しつつあるのかもしれません。
脳科学で有名な方が「個性とは(様々な)知識・経験(経験=知識)の積み重ねである」と言っていました。確かに自転車に乗れる・逆上がりができる・九九を言える・・・これらの知識の積み重ねがその人の個性であるという意見は納得できるものがあります。
とすれば、今までとは違う知識の形態をとりつつある現代の若者達は、今までとはまったく違う個性を身に着けつつある可能性もあるはずです。旧タイプの私にはまったく見当もつかない話なのですが、500年後に今の時代を振り返ると「ニュータイプの発現時期」なのかもしれません。
知識と知恵を紙を使って伝えていた時代の終焉なのかもしれません。